オフサイドがない
ネパールに降り立ってから早1日が経ちました。
今日は疲れているだろうからと配慮をもらい、朝子供達を学校まで送り届けてからは、夕方までフリータイムを過ごしていました。
特に何もすることがなく、孤児院の周りを探検しながら、様々なことに思いを馳せる時間ではありました。
自分はここに何をしに来たのだろうか。
後発発展途上国であるネパールは、僕からしたら不便に満ち溢れている。
トイレが手動水洗式だとか、洗濯は手洗いだとか、インフラがガッタガタだとか。
道路を歩くだけで怖いという経験は、日本では全く感じられないものでした。
しかし、見渡してみれば、ここは笑顔であふれている。
もしかしたら日本の何倍もかもしれない。
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孤児院で働いている16歳の地元の男の子と道端でばったり出会い、彼の後をついていくと、小学生のサッカー大会が行われていた。
何から何まで違って見える日本とネパールだけど、サッカーをしている時の少年たちの顔、それを応援する人たちの熱というのは、全く違いがないものだと思う。
サッカーは世界を彩っているのだと、改めて感じた瞬間であった。
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サッカーを観ながら思う。
僕は
ネパールでボランティアをする=苦しい状況にいる人たちを助ける
という認識を持っていた。
でも、それはまちがっていた。
彼らにとっては、この生活は日常でしかない。
オルタナティブが想像できる僕らの視点だからこそ、これは救うべき対象で有り得る。
僕にとっては、不足しかないこの生活の中で、笑いに囲まれながら、力強く行きている人々でいっぱいなネパール。
例えば何かしらの書物で、
ネパールは後発発展途上国で有り、生活水準は世界の〇〇位で、苦しい生活を送らざるを得ない環境にある
ということが書いてあったとしよう。
でもそれは、多分僕らの考え方の押し付けでしかない。
もちろん、これはたった1日ネパールで過ごしただけの僕が言う軽口かもしれないけれど、それでも、少なくとも僕が今いるこのカトマンズの人たちは、今を楽しく生きている。
平日の真昼間にも関わらず、タッチラインを埋め尽くすくらいに集まった大人たちがサッカーを応援している姿を見て、「いや、働けよ笑」と思ったりもしたけど、それでも彼らは自分たちが憐れみを受けるべきだなんて考えていないだろう。
だからこそ、僕は何をするべきなのか。
その答えを出したい。
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ただ、サッカーを観ていて、別の視点から思うところもある。
オフサイドがなかった。
だからこそ、攻守の分断が起き、それぞれの役割に固定され、ディフェンスは蹴り出すだけの前代的なサッカーが生まれていた。
その中で、勝てるチームというのは、プレイヤーがそれぞれ複合的な役割をもち、流動的なサッカーをしていた。
その違いは何か。
観ていて一つ思った。
イメージがあるかどうか、つまり、ヨーロッパのプロリーグや、ワールドカップの試合を観れる環境にいるかどうか。
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オルタナティブを知らない幸せを感じた。
しかしやはり、それを知っているからこそ、その世界を見せてあげられたらをも思ってしまう。
これは帝国主義的考え方なのかなんて思ってしまうけれど、今は正直わからない。
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もっと足掻く。
そして一つの答えを見出したい。